高野山

 

  高野山は和歌山県伊都郡高野町の海抜1000メートル近い高地にある。

 十津川をはさんで大峰山脈、さらにその東方には吉野があり、

 いずれも古代の修験の聖地であり、

 空海もはやくからこの地の修験と交流をもっていたらしい。

  唐から帰国した空海は、修行の地を求めて各地をさまよい、

 奈良県宇知郡(現・五条市)に来たとき、一人の猟師に出会った。

 その男は背丈が2メートル、手に弓矢をもち、大小2匹の犬を連れていた。

 空海の希望を聞くとその猟師は「このあたりには自分が支配している霊端の地が多い。

 この犬が案内するから、そこで住まうとよかろう。」と言った。

 空海は紀ノ川を超え、山中深く分け入り、そこで高野の主というもう一人の男に出会い

 土地の提供を受けることが出来た。

  弘仁7年(816)、空海は国土は国の王のものと考え、

 改めて嵯峨天皇に高野山の地を賜りたいと上表する。

 翌7月に勅許があり、空海は早速弟子を高野山に派遣し、

 こうして密教の聖地高野山の歴史が始まる。

 空海が猟師に導かれて高野の地を訪れる話は、

 高野山が古くから山の神が住む聖地であったことを物語っている。

 空海は、高野山に真言密教の道場を建立するとき、

 その地の地主神を排除することなく、むしろ神々との共存を大切に考えた。

 その精神は、空海入定後今日まで連綿と受け継がれ、

 いまも高野山にはいくつかの鎮守社がまつられており、神と仏が仲良く鎮座している。

  高野山は4世紀無空の時代にほとんどの僧が山を降り「高野山に人影なし」というほど

 荒廃する。延喜21年(921)、空海に「弘法大師」号が贈られ、山はふたたび復興した。

 しかし、雷火による第2の荒廃期を迎え、その後幾多の変環を経るが、鎌倉時代には

 幕府の援助もあり今日の基盤が築かれた。今の奥の院あたりに庵を結び、

 念仏三昧にふける僧が多くなり、山上は念仏の声、鉦鼓の音で満たされた。

  織田信長に謀反した荒木村重は高野山に逃げ込み、

 高野山の僧は取調べにきた織田方の者をだまし討ちにする。

 怒った信長は高野攻めを決意するが、本能寺の変で攻撃は中止。

 高野山は比叡山の二の舞にならずに済んだ。