長い文章が続きますけれど、我慢してね。
空海上人は西暦774年(宝亀5)香川県善通寺のあるあたり佐伯家の三男として出生しました。
兄二人が夭折した為に、少年時代から後継ぎとして育てられました。
15歳で上京、18歳で大学に入学しますが学風になじめず、中退して仏道修行にはいります。
24歳、処女作であり、出家の宣言書と言える、日本初の戯曲、当時の思想を代表する、
儒教・道教・仏教の三教を比較し、仏教の優れている点を説いたO教指帰」を著作しました。
31歳の夏、留学生として遺唐船に乗り入唐します。
32歳、中国の恵果和尚より1000人を超える弟子の中から真言密教を授法します。33歳の夏に帰朝します。
36歳、高雄山寺の住職になります。最澄が空海に密教の教えを受け、経典の借用をするようになります。
37歳、鎮護国家の修法を行い、空海の名を天下に広めました。嵯峨天皇の協力のもとに高雄山寺で弟子を養成していきます。
40歳、最澄への経典の貸し出しを断り、最澄の高弟を弟子にしたことが、密教に対する考え方の違いによる決別を促しました。
42歳、四国を巡遊し、難行苦行を重ねて開創されたお寺の数々が四国八十八ヶ所霊場となりました。
43歳、高野山を開創して真言密教を発展させました。
48歳春、長い間出来なかった讃岐国満濃池の治水工事を3ヶ月で完成させました。
この堅牢な工法は、今でも世界中の技術者が見学に来るほどの土木技術です。
50歳、教王護国寺(東寺)を密教の根本道場と定めました。
55歳、初の庶民教育学校を東寺に創立しました。社会教化を理念とし、
・vや梵字から50音図を作ったと言われています。
日本最初の辞典、作文概論「文鏡秘府論」、詩文集「遍照発揮性霊集」等から優れた文才が伺えます。
また仏画、医学、建築、文房具まどにも優れた、万能の天才でした。
57歳、日本仏教史上屈指の名著、密教の究極の知恵に到達するまでの10段階を示し、
他教を包括するスケールの大きな思想の「密教曼荼羅十住心論」を著しました。
59歳、高野山金剛峰寺で四恩(父母・国王・衆生・三宝)に報謝する「万燈万華の法会」を行いました。
61歳、皇家安泰、国家平和祈願し、現在に受け継がれる宮中後7日御修法の始まりを行いました。
62歳の835年(正和2)3月21日、高野山に入定されました。
その86年後、醍醐天皇から「弘法大師」の号を賜りました。
国家の安泰と国民の福利を願い、理想文化の向上の為に、その身も命も惜しまず、しばしも休息せず、
全力を尽くした空海の言葉を贈ります。
「この世なくしてあの世はないのだ。この世を逃げてあの世はないのだ。
この世で幸せになれ。生きながら仏となるのだ。」
「この天地宇宙が生きている力とは同じなのだ。」
「さあ・・・手を合わせ。」
「風が吹くように。」
「光がさすように。」
「心に光を放て!」
